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日韓併合前の朝鮮事情5「家屋」

 第五回目は、朝鮮の家屋についての記述を集めて見ました。韓国にはオンドルという床暖房システムがありますが、それは併合前の家屋にも設置されておりました。

 引き続き「最近朝鮮事情(荒川五郎著)清水書店/明治39年5月」より、朝鮮の家屋についての記述を書き出しました。
※旧仮名遣いは現代仮名遣いに直しており、送り仮名や熟語も現在使われている様式に直しています。誤字脱字等あると思います。不明な点は原著を当たって下さい。

 今回は「朝鮮紀行(イザベラ・バード/時岡敬子訳)/明治27年~明治30年にかけて旅行した記録」と「私が朝鮮半島でしたこと(松尾茂)草思社/昭和3年~昭和21年にかけて朝鮮半島で土木工事に従事した著者の回顧録」からも参考として少しだけ引用しています。

朝鮮の家屋(94~96ページ)

●昔は人間が穴住居をして居った時間もあったとか、穴居時代と称えて人類学者の研究になって居る。これは地中に穴を穿ってこれに住んで居ったとのことであるが、朝鮮に行ってみると今でも穴居というてよい有様である。只地上の穴居で無くて地上の穴居であるのが違う位のことである。

●穴居、たとい地上の穴居にしても穴居といえば甚だしいが、朝鮮の家は一口に云えば地上に作った窖(あなぐら)又は土倉のようなもので、これを蘆(あし)や茅で葺いて居る有様は、他から見れば、土畚(つちもっこ)をかぶせたのか又は卑くい灰小屋の四方壁に窓をつけた位にしか見えない。豚小屋のようなとは人のよく言う所で、その不潔と来たら実にお話にならない。

●城市のうちには随分大構えの家も無いことは無いが、官署の楼門などの外メッタに二階建の家を見る事はない。平壌や義州には七分方も瓦葺の家があり、時には二階建の家も見えるが、外には京城でも何所でも大抵草葺きで、只一つ江原道の金城郡の家は悉く平たい石で葺いて居る。これは二三分位に容易く剥げる石が同地の山から沢山出るからである。

●普通の家では大きいのはロの形やコの形に中を庭にして構えて居るのがあるが、農家や裏町の市家など、大抵三四畳敷の室が二つか三つかある一筋の小棟の家で、何の造作も無いのである。

●その作り方は、高くも無い不細工の丸木柱を構えて、これに出入口を除く外、泥土を主にこれにも日本のように厚く葺いてあるのは無くて、日本で多く仮り葺きにする所謂逆葺きの薄いのが皆で、上は俵の編みかけを見たやなのを掛けて居るのがある。

●こういうワケで朝鮮の家を作るのは至って造作も無いことであるから、農家など一般に大工左官の職人を頼むことは無く、大抵は隣近所寄り合うて建てて仕舞うので、低くて汚くて、只僅かに雨や雪を凌ぐに足る位のものである。

●その四方を土や石瓦で塞ぎ、且つ屋根も低い有様は、全く防寒的、朝鮮人は家というものは只寒さを防げばよいという位に思うて居るらしい。不潔とか不自由とかいう考えは更に無いものと見える。

家の内部の構造も全く防寒的で、床を地面から二尺計りの高さに築きその床の下には川の字形になって居る幾筋かの溝を作り、その一方に火炊口を設け、反対の一方に煙出しを付け、冬などは特に火を焚き、その火の気が幾筋の溝を通り、室内を温める仕掛けになって居るのである。その炊き口は通常ここに竈を築き、煮炊きをする火を利用して室内を温める仕掛けにしたのが多いが、尚別に炊き口を設けて居るのも少なくない。

●中等以上の家では床の上に油紙を貼って居るが、下等社会の住居は土床の上に蘆や葦で作った蓆を敷き、その上に寝たり起きたりして居るので、各室一つ二つの小窓と出入口があるばかりであるから、暗くはあるし、狭くはあるし、真に穴居より一歩を進めたに過ぎない有様である。

●室内の模様は中等以上になると、柱と無く壁と無く天井といわず何所といわず、悉く紙で貼り詰めて居る。その紙の種類は古新聞紙もあれば、中にも贅沢なのは白紙や紋紙などもある。近頃は日本製の白いふすま紙を用いるものがぜんぜん増して来た。

●しかし下等社会の家は荒壁のままで、且つ天井というものも無く、蜘蛛の巣だらけ、蠅だらけ、不潔だらけ、ビンデーと称える南京虫は沢山居る。その外にも虫など這い回る。そうして勝手次第に所構わず唾や痰などを吐く。なんとヒドいでは無いか。

●それは夏になると風通しの悪い上に、かまどの熱気もあり、決して内に居ることは出来ない位で、朝鮮の家から防寒の一時を除いたら実にゼロである。

●かく朝鮮の家は防寒が唯一の目的であって、別に夜具など殆ど無い位であるから、燃料は彼らの第一の身代で、木が無いから蘆や茅などを燃料とし、之を積み重ねて互いにその多きを誇り、燃料の欠乏は飯米の欠乏よりも恐れて居る有様である。

朝鮮紀行(58~60ページ)

 城壁の外はうっとりとするような田園地帯で、やがてそれは丘陵の森のある谷に変わる。堂々たる円丘は王家の陵墓で、そのまわりには美しい木立があり、また果樹と野菜畑の中というロマンチックな位置に集落がある。すぐ近くにはこれほどすてきな散策や乗馬の場所のある都会は東洋にあまりない。ひとり森のなかへ逃げこみたいと思えば、ここならすぐにそれができる。さらにつけ加えれば、これほど安全な環境をもつ都会はほかにない。私自身そうしたように、女性が西洋人のエスコートをつけずに城壁の外をどちらの方向へ馬に乗ってでかけても、なんら問題は起きないのである。

 城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまで私はソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興(しゃおしん)へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末はじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬(かいせん)持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアリニン染料で染めたけばけばしい色のあめを売る行商人もいて、みぞの上に板をさし渡し、おそらく一ドル程度の品物をならべている。とはいえソウルにも「大掃除」はあり、漢江の砂地や渡し船の上や麻浦からソウルにいたる路上で、みぞの中身を荷かごに積んで運ぶ牛を数えきれないほど見た。

 こういったみぞに隣接する家屋は一般に軒の深いわらぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだとわかる。またみぞから二、三フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の床を暖めるという役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。終日粗朶を高々と積んだ牛が市内に入ってきて、六時にこの松の粗朶は住民の食事の支度と暖房に用いられ、ソウルの横町という横町をかんばしいにおいの煙で満たす。路地に煙のたれこめる規則正しさは感心するほどである。かわら屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さという点ではなんら変わりがない。

明治27年頃   明治27年頃

私が朝鮮半島でしたこと(71、78ページ)
※昭和3年~昭和21年にかけて朝鮮半島で土木工事に従事した著者の回顧録

 私たち夫婦のほかに大工や会計の人など一〇人ばかりが住みこむ家を借りて、日本人は全員いっしょに暮らしていた。朝鮮の家を日本式に少し改造して、引き戸に直したり、畳の部屋もつくったが、もちろんオンドルは欠かせなかった。

 朝鮮の庶民の家は日本の家と違って、土間と板敷きとオンドルの部屋を仕切ったぐらいで、玄関にあたるものはなかった。土間に煮炊きすると同時にオンドルに暖を送る竃(かまだ)があり、ここが台所になっていたが、風呂場はなかった。われわれは五右衛門風呂をつくって入っていたが、朝鮮の人は大きな盥(たらい)に湯を入れて湯浴みしていた。夏になれば、川に行って水浴びしていた。

 便所は住居とは別棟で、木の扉ではなく、叺(かます/むしろを袋状にしたもの)で閉めるようになっていた。冬はとにかく寒かった。汲み取り式だが、寒いだけでなく、排泄物が凍って、どんどんエベレストみたいに上がってきてお尻までくっつくようになる。しかし、便所を改良するよりも、われわれが馴れるほうが早かった。落とし紙にはちり紙も使ったが、だいたい古新聞を使っていた。

 電気はなかったので、ランプ生活だった。ランプの掃除はツルエの役目だったが、火屋(ほや)を割らないようにしなければならないので気をつかっていた。始興(しこう)の家も当初はランプだった。電気が来たのが何年のことだったかよく覚えてないが、結婚後、数年はたっていたと思う。井戸は、どこに行っても借りた家には必ずついていた。

「朝鮮の家屋」「朝鮮紀行」「私が朝鮮半島でしたこと」から分かること、思うこと

.基本的に二階建ては無く、土壁で藁葺きのあなぐらのような住居だった。低層で汚いので近所の寄り集まりで建てていた。雨と寒さが凌げればよい程度のもの。一件すると泥壁にしか見えない。

.かまどの熱風を利用した床暖システム(オンドル)がある。冬はよいが、夏は空気が逃げず蒸し暑くて暗く狭い。家屋で所構わず唾や痰を吐くので不潔。

.現在の朝鮮でもオンドル(今は温水床暖のことをいうらしい)は利用されている。考えられているシステムや文化は、日本統治時代も消されることなく、むしろ進化して残っている。日本統治時代は、悪しき風習は改め近代技術は積極的に取り入れている。これこそが真実であろうかと思う。

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