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ORE SANJYO ! blog
第5節 朝連の諸闘争と不法行為
第一項 諸闘争と不法行為の概況
1、その大要
「終戦と同時に、民衆は一時進むべき目標を見失いました結果、いわゆる虚脱状態におちいり、一方自省心を失いました徒輩は、社会の安全を脅かすあらゆる悪徳行為に出て、社会不安を醸成したのであります。しかもこれに加えて、いわゆる解放された在留者にして誤れる者は、過去の処遇にたいする反発を理由と致しまして、敗戦国の法律にしたがう理由はないと、あたかも戦勝国民なるがごとき優越感をいだき、たとえば不当要求、集団暴行、各種犯罪の慣行、経済統制の攪乱、無賃乗車等の不法越軌の行為を、しかも衆をたのんでおこない、社会人心を不安におとし入れたことは、ご承知のとおりであります。──わが警察は、これらの在留者にたいしましては、完全なる警察権を掌握し、これが取締りの義務と責任をもっているのであります──略──」
これは、21年7月第90回帝国議会衆議院本会議において、大村内務大臣の国内治安に関する答弁要旨(21・7・24、官報号外)である。またこの国会中の8月17日には、進歩党の椎熊代議士が「第三国人の傍若無人な振舞いにたいする処置」を質問するなかで、おなじようなことを訴えている(これはその後かれらによって大きく問題化された)。
これらの答弁と質問は、まことに抽象的ではあるが、当時のかれらの横暴行為を遺憾なく伝えている。
終戦直後の10月、結成大会の2日目に左翼のクーデターによって乗取られて朝連中総本部は、その後は完全に共産党の牛耳るところとなった。そして朝連の指導者(党員)たちが、一般大衆を革命勢力として訓練するために、あらゆる経済的日常闘争を組織して、これを広範な政治闘争へと発展させ、またそれを暴力闘争へと駆りたてた。そこでかれらの不法犯罪行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらに増長され、戦後の混乱を一層助長するところとなった。こうして、かれらの国民性とまでいわれる功利的で狡猾、しかも奢修虚栄的で射幸心に富み、勤労意欲を欠く怠惰性などを反映しての詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪をつぎつぎと発生させた。そこで敗戦の混乱におびえる日本の一般社会人心は、極度に不安な環境におちいり、一時はまったく無警察の状態が、各地に現出された。これは朝鮮人の心底に潜在していた複雑な民族感情が、一挙に爆発したものであった。この過渡期の検証だけで、かれらの国民性を一般に律することは、いささか妥当性を欠くかともおもわれるが、この間のかれらの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留諸外国人のあいだにまでも、かれらの性格がとくに事大主義で遵法精神が薄く、付和雷同性と徒党性がつよく、感情的で凶暴性をもっているとの、深い印象をうえつけたことだけは、まぎれもない事実のようである。またこれらの不法行為の発生状況をみると、常に内外の強い客観情勢に影響され、とくに本国と共産主義陣営各国の諸施策に呼応して、強力に推進されていた。もちろん日本政府が、敗戦で必要以上に無気力となり、対朝鮮対策がまったく無為無策であったことも、その大きな原因となっているのであろう。
いま、この朝連・民青時代のいわゆる諸闘争と不法行為の推移を時期的に区分すると、おおむね次の二期に分けることができよう。もちろんこの時代は、とくにその初期は右翼と称される民団、建青などによっても、数々の不法行為が慣行されていた。
2、第一期──終戦から21年2月までの混乱時代
終戦後もっとも混乱したときである。あたかも戦勝国民なるかのように(戦勝国民ならなおさらそんなにしないのがほんとうだが──)錯覚した在日朝鮮人は、敗戦国の法律に服従する必要はないとして、勇敢大胆に越軌不法行為を慣行して、日本人から顰蹙を買った。これは、いわゆる解放民族としての思い上がりによるもので、また占領軍当局のかれらにたいする態度が不明確であったこと、日本政府と警察が敗戦の衝撃によって虚脱状態となり、取締対策が不徹底であったことなどが、総合反映した結果であろう。ことにかれらの背後には、朝連や各地の左右群小団体、保安隊、自治隊といったような組織がひかえ、多衆の威力を示してその中核となっていた。
本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは会社、工場、鉱山、事業場等にたいする旅費、退職慰労金などの不当要求をめぐる不法行為、日鮮人間の集団闘争、帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊(朝連の自衛組織)などの警察権類似行為、主食の集団要求や買出し、かれら同志間の派閥抗争などがみられた。また朝連と日共主催の各種の人民大会や示威運動も、この間に各地で行われるようになり、一時は一般国民に「日本に共産革命おこるか」をおもわせる時代もあった。また、それらのなかの主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車電車バスなど不法乗車、生産管理、人民裁判などであった。
3、第二期──21年2月から朝連解散まで
総司令部から21年2月19日「刑事裁判権の行使に関する覚書」が発せられ、一応日本側の法的取締の根拠も明確化したので、官憲の取締はやや積極的となった。しかしかれらの不法行為は、一向に減少する傾向もみられず、かえって悪質な警察取締への反撃反発行為が続発した。そこで総司令部では、同年4月24日「朝連の青年治安隊」に解散を命じたが、あまりその効果はなかった。そして日鮮人間の集団闘争、朝連と民団建青との対立抗争、集団買出しの列車運行妨害(客車の不法占拠)、集団的強窃盗、大規模な詐欺事件なども多数発生した。
ことに本期の特徴は、朝連が日共の前衛としえその実力行動部隊に変貌したことで、そのため組織的尖鋭的な各種の不法事件が頻発したことである。朝連の、また在日朝鮮人運動のもっともはなやかな時代であったともいえるであろう。この期間中のおもな事件としては、新潟日報社襲撃事件、首相官邸暴力デモ事件、阪神教育闘争事件、益田警察署襲撃事件、広島日鋼事件、深川枝川町事件、下関民団襲撃事件などが発生している。これらの事件のなかで、広島日鋼事件は党と朝鮮人党員が組織的に介入した最初の大きな事件として、とくに注目されるものであろう。
4、当時の群小暴力団体
1 朝鮮人帰国者救護会-(下関、仙崎、長崎、愛知)
20年9月結成、その後不正と暴力行為などが多くなったので、下関支部は12月初旬、仙崎は12月27日いずれも軍政本部から解放された。また長崎支部も12月24日幹部5名(朝連常任を含む)が検挙、閉鎖された。
2 在日朝鮮人連盟下関支部
20年10月初旬結成され活動中、不正と暴力行為が多くなったので、12月初旬軍政本部から解散された。
3 朝鮮人国際労働同盟会(大阪-金烈)
20年9月初旬結成、その後不正や暴力行為を働き、12月17日には会員28名が朝連北、旭両支部を襲撃し、破壊と暴行をおこなった。ところが翌18日には、朝連員60名に襲撃され、破壊と暴行をうけたほか、看板をはずされ幹部8名が拉致監禁され自滅した。
4 下関人民解放連盟青年隊(大坪町)
20年9月初旬結成、12月23日青年隊員約30名は、市内の朝鮮料理店の酌婦6名を監禁し、取締におもむいた警察官9名も監禁された。この事件でついに軍政本部から解散させられた。
5 朝鮮民族統一同盟(北海道)
20年11月1-3月にわたって結成された。その後労務者の扇動、退職帰鮮手当の不当要求、脅迫と占拠など8件を発生させた。そこで12月初旬、軍政本部から解散を命ぜられ、委員長安在憲は空路で本国へ追放処分となった。
6 このほか金[火二つ冠に金]相の朝鮮青年同盟西日本支部(山口)、同愛知県本部、金珉道の在日本朝鮮人民会(茨城)、朝鮮人自治会(北海道)、在日朝鮮人互助連盟(若松市堺町)など、全国各地に勝手な名前をつけた半暴力的団体が簇生していた。
第二項 年度別の不法行為発生概況
1、20年度(終戦から年末まで)
1 一般概況
終戦後朝連などの指導幹部は、常に
「われわれは今まで、搾取と奴隷的な差別的待遇をうけた。日本の敗戦で解放された現在、われわれは連合国人であるから、敗戦国日本の法令にしたがう義務はない」
「われわれは二等国民で、日本人は四等国民となった。したがってわれわれは日本人より優遇されるのが当然であるということを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない」
「戦時中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えねばならない」
等の反日ないし侮日的言辞をもって、一般大衆を扇動した。また失業、生活難、帰国問題などで動揺している同胞を巧みにとらえ、これを結集して多衆の威力により、それらの問題を暴力によって解決しようとし、全国的に団結と闘争を強く叫んだ。
このように指導扇動された一般大衆は、従来おさえられていた諸感情が反動的に一時的に爆発し、日本の諸法令を無視して官憲と抗争し、また私怨をはらすなど、その暴状はまことに目にあまるものがった。たとえば食料の集団買出しに、威力を示して乗車券の優先入手をはかり、また公然と無賃乗車して客車を不法に占拠するなどは、毎日随所にみられた日常茶飯事であった。また官公署、会社、事業場などに不当な要求をつきつけ、拒否されれば脅迫暴行をおこない、あるいは自衛隊、保安隊、警備隊、自治隊、青年隊などと称する半暴力的団体を結成し、腕章をつけあるいは制服制帽をかむるなどの姿で、公然と警察権類似の越軌行為をおこなった。こうして集団強窃盗は各所に勃発し、詐欺、掠奪、殴打暴行、破壊、占拠、監禁、いわゆる人民裁判など、傍若無人に平気でおこなわれた。これは敗戦の激動と占領軍の進駐などで、日本側の警察がまったく無気力化し、いわゆる虚脱状態となったからであった。ことに戦後の混乱した社会民心と、警察機構の改編、朝鮮人の法的地位の不明確など、その過渡的根本原因によって、おおきな間隙の生じたこともまことにやむをえなかったといえる。
ただこうした不法行為によって、結局大きく損をしたのは朝鮮人自身であり、その行為と汚名は、一般日本人の頭のなかから長く消えさらないであろう。